着物の歴史

飛鳥時代に入ってくると、当時の和服について、さらにハッキリとしたことが分かってくるようです。
壁画が描かれるようになったからです。

高松塚古墳のことは、名前は耳にしたことがあるのではないでしょうか?
そこには極彩色の絵が、壁に描かれています。

おそらく他の古墳にも、壁画は描かれていたと考えられているようですが、現在まで残っているのは、飛鳥時代のものとしては、高松塚古墳だけのようです。

男性の絵も、女性の絵もあり、当時の和服がどのようなものだったのか、よく分かります。

壁画の他には、『日本書紀』も、当時の和服を知るための材料になるそうです。
日本書紀にも、当時人々がどのようなものを着ていたか、書かれている部分があるからです。

飛鳥時代、男性も女性も襟は「左衽」と呼ばれる左前だったそうです。

やはり古墳時代同様、男性は上着と袴、女性は上着と喪の2部式で、帯で止められ、上着の裾は、袴や喪の中に入れられず、外に出て、垂れ下がるようになっていたとのこと。

また帯は、革ではなく、織物であったと考えられているそうです。
やはり絵が残っていると、ずいぶんハッキリしたことが分かります。

◆奈良時代

奈良時代になると、中国大陸から仏教が伝来します。

遣隋使などの影響で、当時の中国、隋や唐の影響を色濃く受けている文化です。

着物も、当時の中国のものと似ていて、前合わせで、帯を締めるのが一般的な構成になっています。

衣服については、「大宝律令」などの法律でも、詳しく決められていました。。

衣服令の例

礼服(らいふく)
朝服(ちょうふく)
制服の3種です。

礼服は、大嘗祭や元旦など、重要な祭祀のときに着る服です。

朝服は、月に一度の「朝会」と呼ばれる祭り事をするとき、それから「公事」と呼ばれた、やはり重要な祭り事を行うときに着る服です。

制服は、朝廷で特別な地位にはいない、官人と呼ばれる人たちが、公事の際などに着る服だそうです。

それぞれ、形や色は、地位や役職により、違っていたとのこと。
当時の礼服と朝服には「襖(おう)」と呼ばれるものがあり、これは位により、色が違っていたそうです。

武官は、腰を固定するのに、革製の帯をしていました。

ただし以上は、あくまで朝廷に出入りする、貴族たちの衣服です。
朝廷とは関係がない、一般庶民も多数いたと思いますが、その人達の衣服までは、ここでは定められてはいません。

それまで日本の着物は、男性も女性も、左前が普通でした。

しかし当時の中国が右前だったとのことですから、日本もそれに合わせたものと考えられています。

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